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 「上京区は京都の中の京都」なぜそうなの?
             「西陣の町家・古武」 主宰 古武博司
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 上京区には、行政の本丸京都府庁、治安の本丸京都府警本部があります。御所、公家屋敷、金閣寺・銀閣寺の上位 に君臨する相国寺があります。寺で言えば旧洛中の上・中・下京区内に529の寺がありますが、この上京区には228ヶ寺があります。なんと43%を上回っています。平安の都を守る大将軍八神社、学問の神・道真を祭る北野神社、応仁の乱の火蓋が切られた上御霊神社、明治政府の安泰を願った白峯神宮、数え上げれば切がありません。寺社自身が国宝であったり、重要文化財の指定を受けていたり、寺社内には日本史を解き明かす多くの古文書が収納されてもいます。上京区にお住まいの方は毎日宝物に囲まれて暮らしておられるのだと思います。
 最初の花街・上七軒には舞妓さんもおられます。茶道のお家元もこの上京に、烏丸通 には今出川を挟んで南北に能舞台が、ロンドン・パリ・ローマ、世界の人が良くご存知の絢爛豪華な西陣織の産地が少し弱っているようですがしっかりと腰をすえています。織物以外にも一級の美術工芸品が匠の手によって作り出されています。
  私の町家にも国際協力事業団の研修で、キルギス、タジギスタンの大統領府専門官、議会議長など8カ国の中央・地方政府関係者がお越しいただいています。
  全国と世界の人々が京都に憧れを持っておられる全ての物がこの上京区にはあります。「いやいや市役所や二条城は上京区にはありませんよ」とよくおっしゃいます。そのとおりです。それらは中京区にあります。しかし中京区は新しい町、昭和4年に出来た町です。それまで三条通 りから北が上京区でした。市役所や二条城はもちろん裁判所も上の町にあったことになります。

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 東山の大文字は中京・下京からは見ることが出来ません。都の上京・相国寺に正面 を向けています。日本と世界の人々が上京区内のあちこちを訪ね、散策されておられる姿をよく見かけますが当然のことなのだなぁ〜と思います。794年・平安京への遷都以来この地は歴代の天皇・貴族、武士、高位 の僧侶・斎宮が居住まいする雅なところ、源氏物語の舞台そのものの地です。応仁の乱が終わり、その西の本陣跡に機織る庶民が住まいするまで680数年の時の経過を必要としました。もともと天皇・貴族の離宮であったところが、王朝政権の衰退の中で寺院に変化してゆきます。寺院は平和な時代は心の安寧を願う信仰の場所、ひとたび戦禍にみまわれば権力者の大軍事基地へと変わります。さぞかし応仁の乱では多くの寺院が消失してしまったことでしょう。
  しかし、その後の権力者豊臣秀吉も上京に政務の拠点聚楽第を、かつて平安京内裏のあった地に建設しました。また寺々をこの地に集め寺の内と呼びました。かつて権力者の精神的支柱・大軍事施設ともなった多くの寺院が今日では、庶民の信仰に支えられて営まれている姿を見るとき長い歴史の変遷のなかで主人公が確実に移り行くことを歴史を見つめることにより学ぶことが出来ます。この上京区から選出された庶民政治家が地方・国政の主人公になるときがやがてやってくることでしょう。

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 上京の町は歴代天皇・武士階級の権力者による政務の拠点と文化芸術、美術工芸品の制作活動拠点が営まれたところです。ですから京都のなかの京都と呼べる場所なのです。では、なぜ上京の町がそのような場所になったのでしょうか。中京、下京ではいけなかったのでしょうか。今回はそのことについてお話します。結論から申しますと京都盆地の地形と、地質及び水脈をみていただければすぐに分かっていただけます。
  平安京の都造りは、船岡山を基点としてその真南に都の中心軸として二条通りから南へ九条通 りまで朱雀大路が設けられています。それは今日の千本通りにあたります。やや高地で比較的地質がしっかりしている二条通 りから北一条通りまでの北域中央に主要な官庁街と天皇が住まう内裏が設けられた広大な大内裏が建設されます。
 大内裏の東は大宮通、西は西大宮大路と呼ばれ今日の天神筋にあたります。朱雀大路の東域を洛陽、西域を長安と呼んでいました。一条通 は海抜おおよそ50メートル、九条通りは20メートル弱です。京都盆地はこのように北部が高くなっていますので各河川は北から南に流れます。東山連峰の裾野は鴨川に達します。西より東が高くなっていますので、平安京以前の水脈は北東から南西へ流れていました。川筋は洛陽域に集中していました。今出川、小川、夷川、西洞院川、堀川、もちろん鴨川も入ります。
  朱雀大路(千本通り)の地下は粘土質になっています。北東から流れてきた水はその粘土質にぶつかりあふれ出ます。そして大きな池をつくります。御池通 の語源です。今日、二条城南にある神泉苑の池にその面影をとどめています。

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 高地で地質がしっかりしている上の町に権力者が住居します。朱雀大路(千本通 り)二条城あたりからあふれ出た水は、壬生・西京極湿地帯を作り出します。朱雀大路西域の長安と呼ばれていた地は平安京の都市計画である市街地としての完成を見ないままに農地へと変化してゆき壬生菜や九条ねぎの栽培地となってしまいます。水流れる河川に寄り添って人々の暮らしが営まれるのは洋の東西を問わず同じです。
  わが町京都も朱雀大路東域の洛陽と呼ばれていた地の幾筋も長く流れる川筋に沿って商工業者が住まいする下の町が形成されます。豊臣秀吉が上、下の町を周囲二十二キロの土盛りで囲みます御土居と呼ばれているものです。御土居の内側を洛中、外側を洛外と呼びます。出入りの口が七つあったとされ京の七口としてその呼び名が残っています。荒神口、大原口、粟田口、丹波口などがそれにあたります。その洛の部分が拡大してゆき今日の京都市へとつながってきています。京都のことを洛と呼ぶのはここからきています。
 今日1200年の時を経てようやく長安の地も市街地が急速に形づくられてきましたが、地球環境が何かと心配される時代予想を超える大雨でも降ればもともと湿地であったところは大丈夫なのかなぁ~と思います。目に見える所だけでなく地下も見て安全・安心の街づくりをしてほしいものです。

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 地形と地質が良好であった上京の地に、王朝や武家の政務及びそれに関係する産業文化芸術の活動拠点が営まれました。平安京は都の心臓部・平安宮(大内裏)を北域中央部に置くことになりました。
 少しさかのぼって見つめてみましょう。葛野と呼ばれていた京都盆地は、主に朝鮮半島からの渡来人秦氏によって開かれていきます。秦河勝が聖徳太子から譲り受けた弥勒菩薩像を蜂岡寺(秦公寺)に安置したと日本書紀に記されています。603年のことですから平安遷都の191年前のことです。この寺は白梅町にあり北野廃寺跡としてその石碑が交差点北東に建てられています。その後広隆寺として太秦に移転します。
  国政・地方の選挙ともなれば各候補者がここ白梅町交差点にやってこられ、いかに政務にあたるべきかについて熱弁をふるわれています。1400年の昔ここにあった大寺院においても多くの僧侶たちが世の平和を願って法を説いていたことでしょう。八坂神社、松尾大社、伏見稲荷大社はいずれも秦氏の氏神(寺)として遷都以前に建立されています。794年突然都がここ京都の地に移ってきたわけではなく、100年、200年かけて渡来の人によって結果 的に遷都の条件が整えられてきたことになります。当時中国の唐からさまざまな事柄を学び国づくりをしてきました。中国の都城作りの思想「四神相応」にかなう地とされ長安(現在の西安)を模して作られました。
  四神とは四方の守り神とされるもので、北に「玄武」これは船岡山、南に「朱雀」かつてあった巨椋池、東に「青竜」これは鴨川、西は「白虎」これは長安に通 じる山陰・山陽街道とされました。長安もやはり王宮は北域中央に置かれていました。
 大恩のある大陸の国々を先の大戦で侵略したことが悔やまれます。

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  京都は日本と世界の人たちが高く評価される手作り美術工芸品が数多く作りだされています。それは幾つもの伝統地場産業が市内域全体に営まれているからです。その原点はこの上京区にあります。平安京の時代、現京都府庁が建っている街区には様々な役所の台所や仕事場で働く工人が住まいとする諸司厨町(くりやまち)が営まれていました。社会制度が揺らぎ始めてきますと工人自らの能力で生産し販売することを始めます。地場産業の原形の芽生えです。中でも西陣織は地場産業最大の規模で営まれています。
  1467年から10年間に及ぶ応仁の乱は洛中を焦土と化してしまいました。多くの工人は乱を逃れ全国に飛散します。小京都の誕生です。乱が終わりを告げ工人達が都へ戻ってきます。泉南へ逃れていた織りの工人は故郷であった今出川大宮辺りに帰ってくると、そこは焼け野原、山名宗全を領袖とした西の本陣跡です。
  この地で再び機を織り出します。世界に名だたる西陣織の誕生です。町衆による産業活動がいよいよ活況を呈してゆく時代の始まりです。戦に明け暮れる権力者、戦を避け暮らしに必要なさまざまな生活用品を人の心に潤いと癒しをもたらす粋にまで高めつづけ技術の精進に勤める工人と町商人。人生そのものの生き方の違う人達がここ上京の町に暮らします。戦のなかった江戸時代260数年間町衆は衣食住遊の暮らしの全分野に渡って地形と良質の水脈を生かし暮らしの文化を花咲かせます。
  都が営まれて今日まで1213年間人々が暮らし続けている世界においてもまれな地域、京都の中の京都・上京区を源氏物語や方丈記、徒然草などの古典に描かれている様に思いをはせ時を経たその現地を訪ねてみてください。

  何か新鮮な歴史との出会いがあることを願い結びとします。ありがとうございました。

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